2014年11月24日月曜日

成績が伸びる覚悟はあるか

少しおかしな題名です。
成績が伸びるのに覚悟が要るの?
と思われるかも知れません。


確かに、成績を“伸ばす”のには
覚悟が必要です。
半端な気持ちで勉強しても
単なる時間潰しにしかなりません。


しかし、成績が伸びること自体に
覚悟が必要なのです。


これは「成功への恐れ」という感情です。


人は現状維持を求めてしまいます。
それは脳機能的にそうなのです。
今の変わらないことが一番。
良く変わろうが悪く変わろうが
変わること自体が恐怖なのです。


ですから、実は成功したいと口で言っていても、
内心は成功してしまうことに
躊躇している自分がいるはずです。
それも「ああ、もうこうすれば成績伸びるわ」
と道が見えたときほどそうなります。


それはなぜかというと、
成績が伸びると確信を持てた瞬間に、
現状がガラッと変わる事も
同時に認識してしまうからなのです。


ですから、お子様方のやる気がないと
保護者の方がお嘆きならば、
それはお子様が変化を避けているからであって、
それは実は人間として普通の反応なのです。


もしお子様に、それでも勉強させたい、
成績を伸ばしてほしいと思ったら、

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「変化」の重要性を認識させる必要があります。
そして
「変化した自分」をイメージさせるのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


漠然と「勉強頑張れ、勉強頑張れ」と煽っても、
当の本人は勉強する必要性も感じてなければ、
欲しい成果のイメージもないので、
頑張り方を模索しようがありません。
「何をどうしていいか分からない」と言うのは
このためです。


そこで、勉強に取りかかりやすくするために

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

①勉強する必要性
②勉強した結果得られるメリット(イメージ)

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

の2点を明確に認識させることが不可欠です。


できれば、①は②に直結していた方がいいでしょう。
勉強を頑張ることで確実に欲しい未来が手に入るなら、
誰もが勉強に意味を見いだすことができます。
「欲しい未来」が職業的なものでなくても良いのです。
明るい未来、楽しい未来、わくわくする未来など
具体的でなければいけませんが、
それはトータルで日常がそうであればイイ。
職業が○○でなければならないなど、
そういうことはないのです。
将来のイメージにプロセスは関係ないのです。


要はそういう未来にたどり着こうという時に
果たして勉強せずに頭の悪い状態のままで
良いのだろうか?
という問題意識を本人に持たせればいい。


こうすることで、
成績が伸びてしまうことへの恐怖や不安を払拭し、
むしろ成績が伸びることが
自分の欲しい未来に繋がっていると実感することが
できるようになるのです。


今お子様に「覚悟」はおありですか?

2014年11月23日日曜日

平等と公平

先日、生徒の通う学校では
30度を越えないとクーラーが点かない
という話を聞きました。
「うわ〜それはキツいね〜」
と思った後にこんな提案をしました。


それってパーソナル扇風機とか
持ってっちゃダメかねぇ。
電池で動くタイプのやつだったら
電気代を自分で負担するんだから
良さそうだけどなぁ、と。


勿論、音の問題もありますし、
それこそ家庭の状況で
持ってきたくても持っていけない
という人も出てくるでしょうから
教育上難しいのかも知れませんが、
別にそこまでおかしい提案では
ないのではないでしょうか。


少なくても体を壊すよりマシですし、
むしろ30度までの間にある時は
とても勉強する環境ではないでしょう。
学校という教育機関にあっては
本末転倒な状態にあります。


そこで話を戻すと、
そういう風にすれば
平等な扱いなんじゃないかと
私は思ったのですが、
そこである医学部のアルバイトさんが
「それはたぶん“公平”の方が
 適した言い方かと思います」
と指摘してくれました。


おー、そういえばそうか、と。


ちょっとニュアンスの違いが難しいですが、
この「平等」と「公平」とは
認識の上でしっかり分けて捉えておく方が
良いでしょう。


例えば、学校で行われている勉強のやらせ方は
平等なものです。
同じテキスト、同じ授業、同じカリキュラム。
全ての生徒に同じ環境を提供し、
同じ対応を心がけているので
確かに平等です。


しかし、教育的に言えば、
子どもたちの勉強に関して必要なのは
平等な環境ではなく「公平」な機会です。


それは、次のテストで英語の点数を伸ばしたい生徒は
英語に比重を置いた勉強を、
志望校が難関大なら、
センターよりも二次試験に向けた
対策メインの勉強をさせてあげられることが
公平性を確保された学習機会と言えます。


勿論、時間の配分だけでなく、
使うテキストから勉強する場所、
受ける授業の取捨選択まで
自分の欲しい成果に合わせて
自身でセレクトできるのが
最も求められる状況ではないでしょうか。


先生はそのバランスを観察し、
アドバイスするアドバイザーです。
もう上から目線でものを教える
「先生」というフレーズも
手放す時期なのかも知れません。


今文部科学省はじめ日本全体が
平等な教育機会とか、
教育の機会均等などと訴えていますが、
違います。
必要なのは「公平性」です。
それができないから
無意味な勉強に終始し、
世の中も知らないまま
英数国社理の知識だけが豊富な
昔のコンピュータみたいな
人間が育つのです。


学校で習っていることなんて、
もうスマホやタブレットで
すぐに検索して終わりです。


先日冨山和彦氏のL型大学G型大学の提唱で
賛否両論を繰り広げたという話題がありましたが、
もう横並び教育をやめて
現状に照らして抜本的に改革せねば
本当にヤバい状況にあると
認識すべきなのです。


いつまでも旧態依然とした
知識偏重、学歴重視の勉強などしていないで、
もっと本質に基づいた、
もっと人生を有意義に過ごすにはという
重大な大目的のための勉強に
意識をシフトするべき時期なのです。
それも、日本の教育界が迷走している今
自分個人で考え独自の道を
歩んでいかねばなりません。


勉強の仕組みそのものは
すぐに変わるものではないでしょう。
だからこそ、同じことをさせられるなら、
意識だけでも変えて
より自分の10年後に活きるカタチで
勉強に取り組まねばならないのです。


知識なんて何の意味もありません。
これは生徒たちにいつも言っています。
今は知識をどう効率的に取り込み、
その知識をどう活用できるか
というもう一歩上の発想が
求められています。


これを構造的にどう教えていくか、
という教育改革の仕組み作りに
文部科学省は四苦八苦しているのです。
これが早くて2020年施行。


しかし、この新しい教育システムが
本当の意味で落ち着きを見せるには
さらに10年〜20年かかると見られています。


そんなに待てますか?
もうその頃には今の子どもたちは
いい歳になっています。
大人になってから後悔させますか?
あの時もっと考えておくべきだった!
もうそのときには遅いのです。


不安にさせてすみません。
でも、重要な問題です。
時代はどんどん変わっていくのに、
ずっと変わらないのが日本の教育です。
何も考えずにぼーっとしてれば、
そのままみんな一緒にトロッコに乗って、
先のない古びた線路を
落ちるまで走り続けることになります。
その前に、
トロッコから降りて
自分の足で歩く勇気と覚悟を持って下さい、
持たせて下さい。


平等と公平の違い、
是非ご記憶下さいますよう。

2014年11月22日土曜日

どんな努力が報われる??

昨日テレビで『世界72億人まとめTV』という
番組がやっていました。
私は一部しか観ていないのですが、
それはギリシャはヒオス島で行われる
ロケット花火戦争という祭りでした。


このお祭りはギリシャにおける
イースター(復活祭)を祝う伝統行事だそうで、
二手に分かれて協会の鐘に向かい
何万発ものロケット花火を打ち合うという
ものすごい迫力のお祭りです。


昨日は12万発を撃ちまくっていました。


さて、撮影に向かったのは
南海キャンディーズのしずちゃんと
なかやまきんに君の二人です。
防護服と防護盾を装備して
文字通り体当たり撮影。
花火の降り注ぐ現地に降り立ち
最終的には一番危ない場所での
強行撮影となったのです。


それでもかなり迫力ある映像が
撮れたのですが、
どうも何かが足りない。


そこで登場したのがチュートリアルの徳井さん。
なんと(というか、やはり)ドローンでの
撮影をこっそり行っていたのです。


上空からの撃ち合いの光景は
幻想的なものでした。
クラシックのBGMまで添えられて、
明らかに皆から「おおお〜」という
評価を受けていました。


さて、ここで気分が悪いのはしずちゃん。
自分たちは体当たり作戦で
必死に映像を撮ってきたのに、
現地に行かずにドローンを飛ばしてもらい
撮ってきた映像が
しれっと評価されて
二人の立場がないと言うのです。


しかし勝敗は明白でした。


職業病かも知れませんが、
この番組のこの部分を観たとき、
努力とは何ぞやみたいなことが
頭を横切ったわけです。


つまり、どんなに必死になって取り組もうが、
どんなに決死の体当たり作戦をしようが、
周囲に評価されなければ
終わりなのです。


どんなに努力をしなかろうが、
どんなに他力本願なやり方をしようが、
評価される映像を用意できれば
彼の勝ちなのです。


今回の場合は目的が
「迫力ある映像を撮ってこい」という指令だったようで、
確かに陸上撮影でも
十分迫力はあったのですが、
今回は上空から攻めた徳井さんに
軍配が上がりました。


もし目的が別にあって、
「陸上でのド迫力映像を撮ってこい」という指令だったら、
ドローンは使えませんから
しずちゃん達の勝ちなのです。


重要なのは

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

①誰に向けた何の努力か
②その人は何を求めているか

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

を明確に意識して準備をすること。
まずは色々仮説を立てて、
何にフォーカスした映像にするのか、
どんな手段が考えられるのか、
多方面からのアプローチを
想定すると発想が広がりやすくなります。


あとは並んだ選択肢から
実現可能生の低いものから
削っていけばいい。


努力というテーマは色んな議論を呼びますが、
成果を出してなんぼだと思っています。
私の日頃の仕事もそうです。
どんだけ頑張っているかなんて
そんなことは何の関係もありません。
成果が出せるかどうかです。


ちょっと厳しい話をしましたが、
当ブレイクスルー・アカデミーでは
その努力の精度を上げるアドバイスを
日頃の指導に盛り込んでいます。


「求めよ、さらば与えられん」の精神なので、
聞いてくる生徒にしか伝えられませんが、
それでも単なる知識の習得に
終始させない意識で取り組んでいます。


今の勉強なんて、
日本に受験制度があるから
やらざるを得ない面倒くさい作業です。


だったらそんなものはさっさと済ませて、
もっと有意義なことに時間を使った方がいい。
だから当アカデミーでは「超効率主義」を
謳っているのです。


お子様の努力が実りあるものになることを
願ってやみません。

2014年11月19日水曜日

学人(まなびと)

あらゆる学問をこなす人、
様々なことを学ぶ人のことを
学人(まなびと)と呼んでいます。


一方で思うのは、
私の見解で言えば、
勉強しているほとんどの人が
学人になれていません。


「学び」とは一体何なのでしょうか。


例えば、私は最近オフィスの模様替えで
オフィス家具の入れ替えをしています。
生徒たちが来るたびに
初めましての家具が搬入されているのです。


しかし、ここで二通りの生徒がいます。
模様替えされた状況や
新しく入ってきた家具に興味を示して
「おお、この机オシャレですね」
とか言ってくれたりする生徒さんと、
全く反応しないで
「ああ、、、」くらいのリアクションで
そのまま黙々と勉強する生徒さんです。


この二通りのうち、
後者の生徒さんというのは
正直伸びないタイプです。


ものごとに関心がないため、
おそらく勉強自体にも関心が薄く、
ただただ黙々と無関心に
勉強しているのだと思います。
こういう子には勢いもありません。


一方で、家具に食いつき
感想を言ってきてくれるような子は
知識吸収率が高い傾向にあります。
各教科のテーマに興味を持ち、
へ〜とか言いながら勉強したりします。


何かを記憶することの根本原理は
興味・関心です。
これらがない人は人としての面白みもありませんが、
勉強すること自体にも
機械のように取り組むものです。
そして文字通り知識を詰め込む。


勉強を機械のようにしてしまう人は、
英語の文章を読んでも
単語や文法ばかりが気になり、
一方学人はその書かれた内容に
興味を抱くような感覚を持っています。
内容をもっと正確に読みたいから
単語や文法を調べようというものです。


そうです。
この両者は視点のつけどころだけでなく、
思考の順番も因果が逆なのです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

単語・文法を駆使して
文章を読解しなくちゃ、
ではなく、
この話の内容をもっと知りたいから
単語・文法を勉強しなきゃ、
なのです。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


このように、学人マインドを持たないと、
本当に知識だけの習得で止まってしまいます。
知識止まりの勉強ならば
やらない方がマシです。
それは点数を伸ばしたり成績をちょっと上げる
ことくらいにしか役立ちません。
記憶定着率も悪く勉強全体で効率が
非常に悪くなるのです。
その上時間が経てば知識は消えます。
後に何も残らないわけです。


もっと言えば、
「うちの子はやる気がない」と嘆く保護者の方がいますが、
やる気がないこと自体は問題ありません。
ただ、やる気を出す気もないのは問題です。


やる気は2種類あって、
そのうちの内面的動機付によるアゲアゲ状態は
学人マインドにつながる重要な要素です。
これは意図的に形成することも可能です。


勿論、意図的に内面的動機付を引き出すのですから
時間はある程度かかります。
だいたい2週間〜3週間ほどです。


しかし、ここで時間をかけてでも
自分のマインドを切り替えておく方が
絶対に効率的です。
やる気は意図的に引き出せるものなわけです。


しかし、ここまでやってもなお、
やる気の出し方を知りたいという方は多くありません。
やる気がない上にやる気の出し方にも興味がないなら、
残念ながら救えません。
そしてそういう人はどんなに頑張っても
学人に勝つことはできないのです。


勉強を勉強のままでやり続けるのか、
勉強を学びに変えるのかは
あなた(あなたのお子様)次第です。

「自信を持て」をやめなさい

今回お話するのは
私の信奉する脳機能学者
苫米地英人さんの著作から得た発想を
基にしています。


よく「自信を持ちなさい」という言葉を
使いますよね。
スポーツにしても勉強にしても
何かしらの挑戦において
励ます意味での常套句のようなものです。


しかし、私は以前も申し上げた通り、
「信じる」という言葉が好きではありません。
それは多少の疑いが含まれているからです。


自分を信じることと、
自信を持つことも
私的にはニュアンスが違うフレーズです。


では、そもそも「自信を持つ」とは
どういうことなのでしょうか。


私たちの日本語というのは
とかく曖昧です。
分かった気になっていますが、
実際実は分かっていませんでした、
というパターンも非常に多くなる言語です。


「自信を持つ」と一言で言っても、
一体何に自信を持っているのでしょうか。


自分にでしょ?
と思っている方が多いのではないかと思うのですが、
要するに、自分の「何」に自信を持つのか、
自信の根拠をどこに置くのかということです。


自信を持つ根拠になるものとしては
大きく分けて2種類あります。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
①自分の過去の実績
②自分の可能性
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


もし「今までもできたのだから今回もできるよ!」
「練習でできたんだから、本番だってできるさ!」
という自信の持ち方ならば、
それは過去の実績を根拠にしているということです。
①ですね。


しかし、考えてみるとおかしな話で、
「過去にできた」ということと、
「今回できる」ということとの間には
因果関係がないのです。
それぞれが独立した単独事象であって、
確かに相関関係はあるかも知れませんが、
事実直結した要素は何一つありません。


つまり、苫米地さんが言うには、
過去にできたにせよできなかったにせよ、
それを根拠に「今回もできる」と考えるのは
論理的におかしいというのです。


また、過去の延長線上に自分を置いて
捉えている時点で、
ブレイクスルーができにくい状況に
自分を置いてしまっていると言います。


そこで、自信の持ち方を②にすると
どうなるでしょうか。


過去の実績が全くない人が
「俺は絶対東大行くぜ!」
「私は次のテストで90点目指すわ!」
と息巻いたら、
おそらく信じてもらえないでしょう。
「根拠のない自信」だと揶揄されるわけです。


これは「自信を持つ」とは
異質なこととして扱われる傾向にあります。
自信を持つのは良いが、
根拠のある自信を示せというわけですね。


しかし、先ほど述べた通り、
過去の実績自体は自信の根拠としては
あまりに希薄です。
根拠足り得ません。
そして、そのことを内心分かっているから、
自信を持とうとしても揺らぐのです。


こうして考えて行くと、
実は自信を持つことは
理論上成り立たないことになってしまいます。


そこで苫米地さんは何を提案しているかというと、
「自信を持つ」をやめて
エフィカシーを上げることを考えて下さい、
と言っているわけです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
エフィカシー。
自己の目標達成能力における評価です。
要するに、
自分はその目標を達成できるだけの
能力を十分に持っている、
という認識のことです。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


これは先ほどの②、
根拠のない自信に相当するものです。
そもそも根拠のある自信など
論理的に成立しないものなので、
②しかできないというわけです。


そしてそれは、自信を持つことは違い、
エフィカシーを上げること、
自己の能力(可能性)への高い評価を持つことです。


このように、「自信を持て」という
中身があって無いようなフレーズを使うのを
そろそろやめて、
自己評価を高める意識作りを
これからしていくのはいかがでしょうか?


一回一回がぶっつけ本番。
頼れるのは過去ではなく今の自分。
時間軸に囚われない「自分」への評価で
是非素晴らしい成果を残して行って下さい。

2014年11月12日水曜日

この失敗は母になるか

今日私は大きな失敗をしました。
この2週間以上の努力が
一気に吹き飛びました。
全てがパーです。
おかげで今日は何も手に付きません。


うそです。
こうしてFBに投稿していますし、
仕事もあるので気は抜けません。


ただ、本当にさきほどまで
ショックがでかすぎて塞ぎ込んでいました。


失敗は、その程度が大きいほど
ものすごく辛い経験になります。
今回の失敗は私にとって
トラウマに残りそうなほど
本当に心をえぐり、
精神をへし折りました。


でも、それでも戦わなねばならないのです。
立ち止まれません。
戦わねば勝てない。
勝てなければ死ぬだけです。
by ミカサ『進撃の巨人』です。


人は自分の心に保険をかけます。
何か大きな失敗をしても
致命傷に至らないように、
傷つかないように
どこかでブレーキをかけながら
アクセルを踏んでいるのです。


しかし、保険は精神的なリスクヘッジだとしても、
失敗したときのことを考えている間は
100%の力は出し切れません。


保険をかけることの心理は、
本気で、全力で、全身全霊で取り組んだとき、
もしそれで失敗したら
もう立ち直れないほどのショックを
受けてしまうかもしれない恐れ故です。
再起不能だけは避けたい。
それは誰もが思って当然です。


ただ、それでは本気で戦えません。
それが精神的保険をかけることの
デメリットです。


なので今回の私は
ミカサのセリフを毎日つぶやきながら、
仮に失敗してもその結果を
五臓六腑で受け止めきる!
という思いで取り組みました。


が、結果失敗。
本当に全てが嫌になるほどのショックでした。
心臓がズキズキと痛み、
脳の血管がプチプチ切れている、
そんな感覚です。
まだそんな感じが続いています。
もう引きこもりたい。。。


でも諦めたくないのです。
諦めるわけにはいきません。
どんなに苦しくても、
どんなに堪え難い苦痛を受け続けても、
どんなに現実に受け入れてもらえなくても、
戦うことをやめたらアウトなのです。


「失敗は成功の母」という言葉があります。
トーマス・エジソンの言葉として有名ですが、
彼は他にも多くの名言を残しています。


ただ、今回私が言いたいのは、
エジソンの名言が云々ではありません。
それだけエジソンが失敗と向き合い
最後まで諦めなかったプロセス(人生)が
それらの名言を生み出したという
背景の存在です。


彼は電球を生み出すまでに
10000回の失敗をしたと言います。
彼にとっては「失敗」ではなく
単なる「経験」だというのですが、
内心本当にそうだったかは
分かりません。
エフィカシーを高める術を持っていたけど
内心不安で不安で仕方なかったことも
あるのではないでしょうか。


なんせ本当に電球に適した物質が
存在するのかどうかすら
保証されていないのですから。
100回の失敗でも萎えそうです。


最終的には
人間は情報処理システムなので、
解釈の問題に帰着します。
それを失敗ではなく前進と定義できれば
ストレスを溜めていかずに
済むかも知れません。


でも如何せん、
私の場合はまだ感情が追いつきません。
失敗するたびにバクバクしてしまいます。
また失敗したらどうしようと
どうしても不安を思い
ビビってしまうのです。


きっと受験生も同じように
不安な思いを抱えている人も
いることと思います。
だからこそ今日、
私の醜態をさらしました。


私と違い、受験は1年に一度。
泣いても笑っても
チャンスはその1度きりです。
でも、そのチャンスを手にするには
リスクに対して保険をかけている場合ではない。
悔いを残して言い訳で逃げるような結果のために
中途半端な努力をするなんて
馬鹿げています。


本気で、全力で、全身全霊で
取り組んで戦って下さい。
失敗はめちゃくちゃ恐いですし
不安です。
それでも、不合格の可能性を
今は忘れて下さい。
結果は出てから考えればいい。
目の前の1日1日を
MAX活用するしか
私たちにできることはありません。
努力は今この瞬間しかできないのです。


「失敗は成功の母」とは
本気で取り組み失敗した者にしか
適用されません。
保険をかけて戦っても、
その失敗は成功を生んではくれないでしょう。
失敗は、本気でなければ活きません。


失敗を母にするには、
覚悟を決めねばなりません。
強烈なショックを受け入れる覚悟を。
ビビってても構いません。
覚悟さえあれば。


勝ちましょう。
戦って勝ちましょう。
まだ生きている。
まだ私たちには時間があるのですから。

2014年11月11日火曜日

学校制度崩壊の序曲か

※毒舌注意

「フリースクールなど義務教育に」訴え
(NHKニュースwebより)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150617/k10010117111000.html

学校以外も義務教育と見なせるようにするか否かの
重要な議論が行われています。
これはものすごく意義深いものだと思います。


学校という組織のあり方自体が
とっくに限界を来しているのは、
以前から申し上げている通りです。
学校に行かなければ学べないことなど
実は何もありません。


よくコミュニケーション能力や
社会性をもって
学校の必要性を叫ぶ方もいますが、
学校にしか人がいないという
前提のように聞こえてしまいます。
そんなはずはない。
そんなものはどこでも学べます。


むしろ、学校という閉鎖された
特異な環境の中で
何年も過ごすことで
コミュニケーション能力や
社会性が偏ったものとして
定着してしまう方が問題です。


日頃生徒達に指導する中でも
学校が子どもたちに与えている影響が
特に良いものばかりとは限らず、
むしろ学校さえなければ
もっといい子になれるのに
もどかしい思いこそあります。


学校が今社会に果たしている役割は
一体何なのでしょうか。
もし義務教育と言うのなら、
そこには責任が伴うわけですが、
学校という教育機関が
一体何の責任を果たしているのでしょうか。


生徒を型にはめて、
規則で縛り付けて、
人生の意義を教えることよりも
知識の詰め込みの場と化し、
小中高大というレールの上の世界しか知らない
視野も経験も狭い教師に教わり、
勉強も社会性も中途半端で
将来への目的も目標も持てないまま
時間だけを浪費させるような学校が
多いと思うのです。


そんな世界が嫌でなじめない子を
「不登校」という言葉で問題児扱いし、
授業についていけない子を「落ちこぼれ」、
授業が簡単すぎて退屈する子を「吹きこぼれ」と称し、
学校中心の発想によって
いかにも彼らが悪いように言う世の中です。


日本の教育が内包するあらゆる問題を
彼らに押し付けているようで
なんだか気持ちが悪い感じがします。


先日ブログでご紹介したドイツの教育システム、
マイスター制度とデュアルシステムや、
アメリカでなじみのあるホームティーチャー制度などを
併用させるカタチで
もっと子どもたち本来の能力を
失わせない仕組みを確立するべきでしょう。


L型G型大学の構想もありましたが、
大学から分けても遅いと思います。


それから、日本が義務教育という発想自体残すなら、
どんな能力をどの水準まで子どもたちに習得させるのか、
そのラインを決めておくべきでしょう。


フリースクールもインターナショナルスクールも
あらゆる組織がありますが、
どこも良い環境ばかりではないはずです。
自宅で学習させるホームティーチャーにしても、
勉強以外の要素も含めて
義務教育を完了したことを何をもって判断するのか。


今ではパソコン一つでお金を稼げてしまう時代です。
コミュニケーション能力が本当に必須か
と言われるとそうでもありません。
勿論あるにこしたことはありませんが、
黙々と何かに取り組むことが得意
という子がいてもいい。
作品で何かを語りかける、
作品で人を感動させる人もいるでしょう。
音楽で人を幸せにできる人だっている。


だからこそ、そういった多様な社会で、
一体日本の教育を通して
どんな子どもたちに育ってほしいのか。
そこが全く不明瞭なのです。


教育基本法も立派なことは書いてあれど
単なる抽象論であって
全く実現性がない理想論です。
結局全部欲しいと言っているだけ。


トレンドに乗っかって
ミーハー的に英語教育に力を入れてみたり
プログラミング教育に力を入れてみたり
全く将来ビジョンがありません。
見境がない。


そこにあって今回の義務教育に関する
規制撤廃の可能性は
わずかな希望の光になるかも知れません。
おそらく学習塾業界でも
この流れを見据えて
勉強に特化した義務教育の場を売り出すでしょう。


しかし、一方で、
このような規制撤廃の裏には
必ず自由競争が待っています。
何も考えずに時間を過ごせば
社会に飛び立つ際に
もはや埋めきれない力の差ができている
なんてことも考えられます。


それに、学校の義務教育化がゆるめば、
逆に学校の権威が上昇する可能性もあります。
学校という教育機関が洗練されれば
今まで以上に目的化された環境になるはずです。
価値観がガラッと変わるでしょう。


とにかく、教育改革の流れの中で
今いろいろな変革が同時並行で議論され
動いています。
大事なのは、表面的な変更に流されることなく、
その先に何が待つのかを凝視することです。


全てを把握しきれる人はいません。
でも、自由とは厳しい世界です。
「考える力」が必要です。


今回の話は、決して弱者救済の流れではありません。
決して不登校の子たちが救われる、
学校以外の場で頑張る子たちが報われる
という話ではないのです。
「選択肢を拡げてあげるから、あとは自分で考えて行動してね」
というある種厳しい選択権の譲渡です。
義務教育の「義務」を国だけが持つあり方から、
教育を受けさせる義務を持つ親に渡し、
子どもたちの未来の責任を
一緒に持ちましょうというスタンスの変更です。


今後この議案が実行されれれば
日本の教育現場は間違いなく
ガラパゴス化していきます。
そこでどう明確なビジョンに向かって
子どもたちに“よりよい教育”をしてあげられるか。
私たち大人が
もっと考えなければなりませんね。

2014年11月5日水曜日

学校に騙される



空気抵抗ゼロなら
どんな物体も同じ速度で落ちるのは
実はウソでしたと言われて
つぶやいた一言です。
某科学系マンガの1コマ。


学校って結構ウソばっか教えてます。
そのことに気付いたのは
私が本を読むのが好きだからかも
知れません。


三権分立で立法権は国会が持ってると
誰もが教わるでしょうが、
実際に法律を作っているのは内閣法制局です。


数年前、絶対零度で凍らない物質が発見されました。
科学の根本原理が全て覆されるそうです。


地理で教わるデータは
だいたい数年前のものですし、
歴史はどんどん塗り代わり、
理科は
「ここまでアカデミックなレベルは要らない」
とはしょられています。


英語もgood morningを「おはよう」と教え、
I'm sorryを「ごめんなさい」と教え、
Nice to meet you.をいきなり使う挨拶のように教えます。


以前ゆとり教育であった
「円周率3.14を3で計算しましょう」
がかなり問題として取り上げられましたが、
実は今学校で教わってる内容は
ほぼこのレベルです。
でも、誰も問題にはしません。


その一方で成績や点数を
気にする親御さんがあまりに多い。
何を教えられているのか、
どんな風に教えられているのかを
気にする親御さんはあんまり聞きません。
私はそちらの方が気になって仕方ないのですが。


ちなみに、
もし学校や周囲が強制することなく、
子どもたちが純粋に
興味がわいたときに勉強をし始めたら、
おそらく中学校3年分の勉強なんて
1年くらいで済ませてしまえると思います。


現に私が高校受験を始めたのは
中3の夏からです。
半年でも十分な結果を出せました。


これは頭の良さとかではありません。
私は普通です。
ただ、やることを絞り込んだに過ぎません。
限られた時間の中で
志望校合格に必要な要素だけに
全力を注いだだけなのです。


それができたのは興味がわいたから。
自分の勉強に必要性を見いだしたからでした。


これが大学受験のタイミングには
自分が勉強していることが
どれだけ無意味な知識かを思い知り、
余計な時間を掛けずに結果にコミットすることを
考えました。
各教科を理解すること以上に
合格するにはどこまで仕上げればいいのか
ということに割り切ったのです。


受験が終わればどうせ忘れる記憶。
消えてしまってもいい記憶。
ならばバカ丁寧にやることもない。
ただ受験日その日に必要なレベルで
記憶に残っていればいいのだと。


ちなみに私は中学でも高校でも
成績は悪い方でした。
私自身は何も気にしていませんでした。
親は結構気にしていたようですが。


余計なことを気にしていると
本当に大事なことを見失ってしまいます。
どうしてみんなががむしゃらに勉強しても
成績が思うように伸びないのかというと
余計なことを考えたり
余計なことをしたりするからです。


そして、なんでそんなことをするかというと
興味も関心もないからです。
強制的にやらされているだけなので、
自分で効率とかも何も考えていないのです。
だから1年で終わるはずのことも
3年4年掛けてしまう。


私もそうでした。


それでもみんなと私が違うのは
学校を気にしなかったことです。
みんな学校を中心に考えるんです。
宿題もちゃんとやっていかなきゃとか
課外を受けるんなら予習もちゃんとしなきゃとか。


でも負担ばっか増やして
必要なことに手が回っていないことにすら
気付かないので、
頑張っても成績が伸びない〜ってなる。


勉強ってそんな難しいことではないし、
そこまで気にすることでもありません。
ただ、人生として学生時代を
どう過ごすかはしっかり大事にしてほしいと思います。

成績を伸ばすための最短距離

私は以前から
成績を伸ばすのは実は簡単だと
言い続けてきました。


かく言う私は
学生のときには成績はよくありませんでした。
今私が気付いたようなことを
当時は気付いていなかったからです。


私の性格上、
納得がいかないものには手が付かなかったし、
頑張った先にある程度保証されたものがなければ、
頑張ることも意味がないと考える学生でした。
どうしていつか忘れる知識を
わざわざ青春を削って覚えなくちゃいけないんだと。
ひねくれ者ですね。


ただ、これは全ての真理だと思うのですが、
やるべきことをやれば
成果が黙っていてもついてくるものです。
これは勉強だけではなく
ビジネスだって人間関係だって
なんだってそうだと思うのです。


問題はその「やるべきこととは何か」
ということでしょう。


やるべきことをハッキリさせたいのであれば、
まずは最終目的地を明確に決めてしまいましょう。


残り200日で○○大学に合格する、
センター試験で700点以上取る、
今年度中に学年順位で20番以内に入る、
など明確なゴールを設定してやるのです。


あとは現時点の立ち位置と
そのゴールを最短距離で結ぶわけです。


が、ここで一人で勉強するということに
限界を感じてしまう人が多いわけです。
分からないんですね、やるべきことが。


そこで詳しい人に聞くのが良いと
塾という選択肢の模索が始まるわけですが、
以前から申し上げている通り、
塾というのはシステムはあれども
ノウハウはありません。
ないと言うよりも、
カタチとしては授業もテキストも
カリキュラムもあるのですが、
効率的に成果を上げるにはどうするか
という発想は持ち合わせていないのです。


ざっくり言うと、
完全に聴く人を間違えているのです。
でも、親御さんもお子さんも
知識がないから
塾の担当の先生が言う話が
ありがたいものに聞こえて
なんだか凄そうに感じてしまうわけです。


その結果余計な荷物まで増やされて、
物量作戦にさらされる。
作戦と言うほどのレベルでもないですね。
ただ、根性で乗り切れ!という感じです。


そうならないためには、
大変かも知れませんが、
もう少し親御さんが勉強するべきです。
勉強の仕方も含めて勉強するべきです。


例えば病院に行って手術になったら、
自分でもあらゆる手法を調べて
担当医に質問して可能性を探るでしょう。
それを塾の場合には
ほとんどの方がやらないわけです。
丸投げです。


そんな面倒なことしている時間ないわ!
とおっしゃる方もおられると思います。
だからブランドで塾を選ぶんですよね。


でもブランドのある塾は
看板になりそうな生徒優先で
教室運営をするのが常です。
良い先生は優秀層にあてがわれ、
積極的に絡んでいく彼らは
どんどん先生が情報を提供していきますが、
勉強をさせられることに慣れている子たちは
何かをしてもらうのを待ち続けて
結局自分から現状をどうこうしようという
発想がないために放置されます。


すると子ども達は
学校+塾の課題で消化不良を引き起こし、
勉強に飲み込まれて勉強嫌いになるか、
まじめな子ほど精神的に病んでいく。


精神的に病むこと無く頑張れる子は、
それこそ知識習得しかできない無思考人間になり、
そのうち「頑張っても報われない」壁に
突き当たることになっていくのです。


と言うのは言い過ぎですか?
確かに可能性の話に過ぎません。
が、私はそうなるのではないかと懸念しています。
人生において注意しすぎて損することはありません。
リスクを恐れて何もできなくなるのは困りますが、
リスクを回避せんと今から必死に考えることは
ここにいる全員ができることです。
そして、今しかできないこととも言えます。


成績を伸ばすための最短距離を行くには、
その最短距離について知っている人を
見つけるのが良いのですが、
それは塾にはいません。
おそらく高い確率でいない。


では、どこにいるのか。


本屋に行ってみて下さい。
その手の本は五万とあります。
まずはその中から5冊ほど読んでみて下さい。
本当ならば20冊くらい読んでほしいですが。
ちなみに私の場合は脳機能や身体生理学、
心理学や哲学、歴史やビジネスや教育基本法など
あらゆる分野の本を当時で100冊以上は読みました。
その結果、結局自分で勉強するのが
一番効率的なんじゃんということに気付いたわけですが、
それはかなりの時間と労力を必要としますので、
まずは5冊ほどで感覚を養って下さい。
そしてそれらに同じことを言っている部分があります。
そこがエッセンスです。


別々の人が書いた本で
同じことを言っているということは、
その部分だけは勉強のルールであって
誰もが変更を加えられない、
避けて通ることができない部分ということです。


そういった情報をある程度収集した後、
塾の担当に色々質問をぶつけてみて下さい。
彼らがどれだけ勉強を知らないか
初めて実感していただけると思います。


問題はその先なのです。
その塾をどう活用するのかを考える。
担当の人に
「あなた全然詳しくないんですね」
と言ってしまったらケンカになるだけなので、
その塾のスタッフの勉強認識レベルを把握した上で、
誰に頼るのが一番安心できそうか、
どうこの塾のシステムを利用すると
効率よく勉強できそうかを
考えてみて下さい。


そうすれば、これまでの何倍ものスピードで
成績を伸ばして行くことが可能になるでしょう。

2014年11月1日土曜日

それは目的ですか?手段ですか?

今日はとても嬉しいことがありました。
私が英語の翻訳をお願いしていた方から、
私の言葉に感化されたという旨を
聞かされたのです。


その方は私のホームページを
英語に直して下さる仕事で
ご協力をいただいていたのですが、
そのホームページの文言と向き合っているうちに
自分の現状を顧みられたそうです。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
これは「目的」なのか、
それとも「手段」なんだろうか。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


この疑問は私もまさに今
向き合っている課題です。


そしてその方は、
やっぱり自分の好きなことを通して
活動していきたいと、
現在国際交流イベントを実現すべく
準備を始められたのだそうです。


私の言葉で良い影響を受けていただき、
実際に自分の行動を変えられたと聞き、
恥ずかしくもありましたが、
それ以上に嬉しい気持ちになりました。
自分のやっていることは
間違っていないのだと、
その方の口を通して
神様から励まされたような気分になりました。


今やっていることが目的か手段か。
この意識は常に持っておかねばなりません。
もし今勉強で苦労されている方がいるなら、
それは勉強を目的化してしまっているからでしょう。


勉強は目的ではありません。
あくまでも手段に過ぎないのです。
しかし非常に多くの方が
勉強を目的化して取り組まれている。
そして案の定苦しんでもなお
成績が伸びないと嘆いているのです。


残念ですが、
今のままではどう頑張っても伸びません。
そこにはスコトーマが掛かっているからです。


スコトーマとは心理的盲点のこと。
人間はある制限を持った思考回路(発想回路とも)
を持っています。
制限とは「自分の思考レベル」
「自分の発想の幅」です。
その制約の中でしか答えを導けないように
なっているわけです。


これは至極当然です。
自分の持っていない(知らない)ことは
どんなに時間を掛けて考えても
答えを出すことはできません。
そして、もう少し踏み込んでいくと、
仮に脳内に答えがあったとしても、
それが盲点となって
全く見えなくなってしまうことがあるのです。


それは、目の前の事象に対する答えを出すのに、
それが役に立つはずが無いと
思い込んでいるために起こる心理的な盲点。
裏を返せば、意識を変えることで
外してしまえる盲点でもあるのです。


こうして見ると、重要なことは
勉強を「目的」だと思っていた自分の発想を
「勉強はあくまでも手段だ」と切り替えることにあります。


相手のことを「寡黙で付き合いづらい人」と見るか、
「めっちゃ頭良くて色々詳しい面白い人」と見るかで、
その人との付き合い方が大きく変わってしまうように、
どういう意識でその対象と向き合うかで
全くその対象から得られるものが変わってきます。


いつも言っているように、
所詮この世は情報でできていますので、
私たちの認識する世界は
解釈によってコントロールできます。
解釈を変えれば世界も変わる。
世界を変えられれば現実も変わるのです。


ちょっと小難しい話になっちゃいましたが、
今自分のやっていることが
目的なのか手段なのかを意識してみることで
必ず成績、点数が変わってきますので、
是非お試し下さい。